ゴム加工場のある自宅で育ち、他社で加工も営業力もレベルアップし後継者へ。工業の魅力を発信するため“有名になる”決意。
(株)赤堀パッキング
代表取締役
赤堀 仁氏 (東京)

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創業は1971年、東京の江東区でゴム加工などを手がける赤堀パッキング。ものづくりのプロ集団として、半世紀以上にわたり事業を展開しています。現在同社を率いるのは、ビジネスでもプライベートでも“兄貴”と慕われる赤堀仁社長。幼少期からカリスマ的な存在としてまぶしく映っていた父の姿を目指し、大阪の同業他社で修行後、2代目として会社を承継。超特急スピード加工を強みに、業績を伸ばしてきました。父に憧れながらも、自らの考えを貫き会社を成長させてきた赤堀社長の、酸いも甘いも後継者ストーリーとは。

幼少期から父はカリスマ的存在

マリコロ編集長:まず、お父様の創業エピソードについて教えてください。

赤堀:父は中学卒業後、丁稚奉公として静岡から単身上京しました。まず住込みで7年ほど働き技術を身に付け、そのあと商社に入社したようです。2年ぐらい経ち自分だけで仕事を獲得できることがわかり独立したと聞いています。それが私たちの前身となる「赤堀パッキング製作所」です。まずは父と叔父の2人で始めたようです。

マリコロ:当時の父はどのような苦労があったのでしょう。

赤堀:毎日朝4時起きで、休みは月1回だったそうです。勤めていた商社の社長からお客さんを紹介してもらうこともあったそうですが、ひたすら飛び込み営業をしていたとか。僕は創業の2年後に生まれましたが、とにかく父は多忙で、学生の時の催しものに来てもらったことは1度もありません。

マリコロ:子供心に家業はどう映っていたのでしょうか。

赤堀:物心ついた時から父に仕事の話を聞かされていました。「モノを仕入れ、加工して売ると儲かる」という仕組みを叩き込まれました。「1000円で仕入れて3000円で売っているんだぜ。すげえだろう?」と、よく僕に自慢していましたね。

【左上】機械でゴムをくり抜き成形【右上】入社当時赤堀社長が使用していた機械【左下】成形されたばかりのパッキン【右下】細かい作業は熟練の手作業

マリコロ:お母様はどのような方だったのでしょうか。

赤堀:母親は美人で務め先は資生堂、どちらかというと山の手好みな女性でした。当時住んでいた錦糸町も気に入っていなかったようです。小学校の時は毎週末銀座へ食事に行き、テーブルマナーを教わっていました。周りには毎週外食に行くような家はほとんどなかったので、「すごいね」と言われていましたね。食事だけでなく車や家も友達と違い、お金持ちであることを徐々に認識し始めたというわけです。そんな暮らしをさせてくれる父はカッコ良く、僕にとってカリスマ的な存在でした。

新卒で大阪に就職、機械加工のノウハウ吸収

マリコロ:駒沢大学を卒業した後はすぐ家業に入らず、大阪の会社に就職されていますね。

赤堀:父の意向によるものです。昔から「甘ったれにならないよう、修行に行かせる」と言われ続けていました。就職したのは当時、日本のゴム加工業界で3本の指に入る同業会社でした。16歳から22歳まで父の元でアルバイトはしていたのですが、当時は機械がなく、ほとんどが手加工だったので、就職先では機械加工を習得しました。契約期間は2年。将来にいかせるノウハウを全部吸収してやると決めていましたね。

マリコロ:すでに、将来会社を背負う覚悟を決めていたのですね。

赤堀:そうです。機械がほとんどない手加工の父の工場に帰るわけですし。その修行先で働いた経験がなければ、現在の会社は存在していないと言ってもいいほどです。独自の機械や工具を知れたのも貴重な経験でした。ものづくりの現場では、「いかに早く、正確に作るか」が追求されていて、機械さえも自社で作ることが多いんです。そういったアイデアを間近で見ることができた2年間は僕の宝物ですね。

最新のカット技術をもつ機械で加工した龍。ご自身のイメージも龍なんだそうです!

マリコロ:その後、東京に戻ったのですか。

赤堀:その後もう1社に1年ほど勤めました。仕入れ先だった三重県のゴムメーカーです。バブル崩壊で当初「もう同業の身内は採用しない」と言われたのですが、入社することは自分の構想の中に入っていました。このメーカーの同世代と仲良くなっておけば、自分が社長になった時のコネクションが作れると考えていたからです。ですからどうしても働く必要があった。

事実上の社長である専務取締役に直接会って「入れてくれなかったら、将来仕入れ先を他社に変えますよ」と直談判しました。そうしたら採用してもらえたというわけです。

マリコロ:すでに経営手腕を発揮されていますね。

赤堀:手腕というか単に強引なだけなんでしょうけど。(笑)現在、当時の若手社員のほとんどが部長に昇進しているのでやりやすいです。僕のお願いはほとんど聞いてくれますよ。

自社に戻ると、父から「赤堀君」と呼ばれる

マリコロ:半年後東京に戻り、どのような流れで社長になられたのですか。

赤堀:戻って父に最初に言われたのは「赤堀君、今日からお客さんは自分で取ってきなさい」という言葉でした。どこに営業に行けばよいかわからないと父に聞くと「ゴムの看板をみつけて、飛び込み営業すればいいんだよ。本当にお金がなく、ご飯が食べられなかったら土下座でもして仕事貰うだろ!」と。

マリコロ:お父様からの呼ばれ方が、急に「赤堀君」になったんですね。

赤堀:あの時のことは一生忘れられないですね。ちなみに当時、僕はハイラックスサーフという車に乗っていたのですが、さすがにそれで営業行くのはまずいじゃないですか。父に軽自動車を買ってほしいと頼むと、「修行のせいでサラリーマンになっちまったな。そのままハイラックスで営業すればいい」と言われてしまいまして。それからずっとハイラックスサーフで営業していました。

マリコロ:大型SUVで営業、斬新ですね。受注はできたのですか。

赤堀:それがバッチリだったんですよ。打率でいうと9割!イチローさんの4割をはるかに上回っていましたよ。

マリコロ:営業打率9割ですか!すごすぎます。どんな営業トークで口説いていたのですか。

赤堀:よく「嘘でしょう」と言われるんですけど本当の話なんですよ。当時のゴム業界は棲み分けが決まっていて、新規開拓という発想がなかったんです。そもそも若い人がいないから珍しがられました。16歳から修行してきたと話すと「お前すごいな」と褒められ、営業すればするほど受注が加速したわけです。

マリコロ:なるほど。社内的にはいかがでしたか。後継者が入ると、周囲と摩擦が起きやすいですよね。

赤堀:いろいろありましたよ。僕が生意気すぎたのもありますし。修行から帰ってきたら熱量が違い過ぎて会社全体がぬるく感じてしまいました。職人もみんなやる気なく見えてしまって、いつも喧嘩していましたね。

リーマンショック時に社長就任、ボーナス払えず

マリコロ:幼少期よりお父様から経営を学び、お母様からは華やかな世界を教えてもらい、後継者として恵まれた環境だったとうかがえます。一方で、酸っぱさはなかったのでしょうか。

赤堀:社長就任とリーマンショックが重なったので、あの時は少々辛かったです。売上が前期の30%くらい落ち、創業後初めてボーナスを出せなかったほどです。その年の後期には盛り返せましたが、会社を回すことの大変さと社長としての責任を痛感しました。

マリコロ:すぐに盛り返せるとは、赤堀社長の営業力が功を奏したのですね。多数のゴム加工会社がある中で、あらためて赤堀パッキングの強みを教えていただけますか。

赤堀:やはり日本一を自負する「超特急スピード加工」です。他社で間に合わないものは、うちに頼んでくれと言っています。これこそ、僕の営業時代の殺し文句で、行く先々でアピールしていました。

とはいえ当時は、社員に夜中まで働いてもらうことも多く、いわゆる超ブラック企業でした。お金を稼ぐためなら当たり前だと、そんなスタンスを続けていたら、一気に5人辞めてしまって。その頃、社員は25人くらいしかいなかったので本当にきつかったですね。

“汚い、キツイ、危険”のイメージを変えたい、有名になる決意

マリコロ:赤堀社長からはものづくり業界を盛り上げたいという強い思いが感じられます。若者にゴム業界の魅力を伝えるために、どうすべきだと考えますか。

赤堀:まず、ものづくりの「汚い、キツイ、危険」といったイメージを払拭させる必要がありますね。今の時代、工場で汗水垂らして作業するよりも、ITなど煌びやかな世界で働きたいという人が多いのは仕方のないことです。だからこそ業界の魅せ方を工夫しなければならないフェーズに来ています。日本を支えているのはやはり製造業。この先、日本の人口はどんどん減り、海外との競争も激化していきます。だからこそ、僕たちみたいな若手経営者がもっと発信して、業界を元気にしていかなくてはいけないと。

マリコロ:最後に、赤堀パッキングが描く未来を教えてください。

赤堀:僕自身がもっと有名にならなければいけないと思っています。業界を明るくするためには、どこかの有名人に「モノづくりは素晴らしい」とアピールしてもらうのが1番ですが誰もやってくれないですから僕自身が有名になり発信するしかないと考えています。今も「ゴム業界の風雲児」と言ってもらえていますが、名前だけではなくどんどん形にしていきたいです。
またどれだけ売上が上がっても、社員はMAX49人と決めています。これ以上増やすと外的要因等で経営が大変になったりするので。その代わり、アジアNo.1になることを目指したい。アジアでトップを取れば、世界No.1もそう遠くないと思いますので。