余命宣告にいじめ…“可哀想”といわれた幼少期の劣等感。「強くなりたい」思いで運送業に入り、誰よりも働き社長の座へ。いつか若者の兄貴的存在になれたら。
(株)TMT
代表取締役
西川弘希氏(神奈川)

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愛知で生まれ、6人兄弟の5番目として育った西川弘希社長。幼少期の病気のため「小学生まで生きられない」と医師から余命宣告を受けます。病弱なことでいじめに遭い友人もいなかったため、高校1年で学校を辞めると、20歳のときに名阪急配が抱える物流センターでアルバイトとして働き始めます。そこで人生が変わる仕事、役職との出会いが。「強くなりたい」「認められたい」その思いを実現し社長に上りつめたストーリーとは。そして、その後襲われた最大のピンチ、倒産の危機とは。西川社長の“スパイシーすぎる激辛人生”に迫ります。

余命宣告にいじめ…「弱い自分」に苦しみ続けた幼少期

マリコロ編集長:西川社長は過酷な幼少期を過ごされてきたそうですね。

西川社長:はい。生まれつき喘息、アレルギー、アトピー持ちで、呼吸が止まったことも何度もあり悲惨でした。食物アレルギーも酷く、私のためにひえやあわなどを親が常に携帯していました。兄弟6人のうちここまで酷い症状が出ていたのは私だけ。多くの病院にかかりましたが、治療法は特にないと言われ、医師からは「小学生まで生きられないだろう」と余命宣告されていました。
ところが、体に良いと聞きつけ母がつくってくれた根菜の煮汁を毎日飲むうちに、徐々に症状が良くなっていきました。小麦粉も食べられるようになり、初めてラーメンを食べたのが小学5年生。味はもちろん、麺をすする行為自体が楽しかったのを覚えています。

マリコロ:子どもの頃は「皆と同じものが食べたい」という思いも強いですよね。

西川:その通りです。給食でなく母に届けてもらう弁当を食べるのが嫌でした。学校は休みがちで体育も見学ばかり。皆と違うひとつひとつが病気より辛いことでした。いじめにも遭い、アトピーでシャツに血が滲むほど肌は荒れて顔も腫れぼったく、自分は弱いのだと潜在意識に刷り込まれ、その劣等感がさらに弱さを引き出していました。誰かが私を見てかわいそうと口にした際は母が病気を説明するのですが、まるで自分の弱さをアピールされているようで最も苦しい瞬間でした。兄たちのように外へ遊びに出かけることもできず、自分には自由なんてないと感じていました。

なぜ自分だけが病気なのか、自分の人生の意義は何かと小学校入学以前から自問自答を繰り返し、その答えを知りたかった。とにかく強くなって人並みの人生を送りたいと思っていました。

アルバイトから半年で正社員かつ主任へ、激辛人生の転機が

西川:高校入学時には健康な状態だったものの学校には馴染めず、1学期から行かなくなりました。その後アルバイトを始めましたが、自分の中の劣等感は変わらぬまま4年ほど過ごします。転機が訪れたのは20歳のとき。愛知の名阪急配が抱える物流センターに入ると100名近いメンバーがいて、そこで初めて人との関わりが生まれました。
仕分けアルバイトでしたが、頑張れば頑張るほど必要とされ、お客様も会社も評価してくれる。嬉しくてのめり込み、入って半年で社員にならないかと誘われたのです。
当時80名ほどいるアルバイトの一人だった私の上には社員が6名いましたので、それに続く7番目の社員となるはずでした。ところが、直属の上司である主任が激務のストレスで辞めることになり、この空きポジションを先輩社員全員が断ったため、新米社員の私にその話が舞い込み、役を受ける決断をしたのです。

マリコロ:いきなり主任とは、大きな出世ですね。ただ皆が拒んだということは、それほど厳しい選択ということですか。

西川: そうですね、アルバイト時代にもらっていた月40万円ほどの収入も減りますし、社員になり主任を務める道を選ぶのはいばらの道でした。それでもそう決めたのは、何より成長できると思ったからです。自分の弱さや劣等感を克服したいと強く望んでいましたから。私がこの会社で働き続けるなら、主任のポストは遅かれ早かれ通る道。その時同じストレスを抱えるならば、先延ばしにするのは勿体ないと考えました。

マリコロ:20歳でその思考ができることに驚きです。それに、西川社長は先ほどから「弱い自分」と繰り返しおっしゃっていますが、この選択には弱さを全く感じません。

西川:失うものはありませんし、仕事で必要とされることが嬉しかったんです。周囲の期待に応えられたら、この先未来がどう変わっていくのかと楽しみで仕方がありませんでした。

劣等感から抜け出し、異例のスピード出世

西川:とはいえ、クラス委員すら経験のない私が人の上に立って上手くいくはずがありません。センター長から社員全員へトイレ掃除の指示が出た際に部下である先輩社員に押し付けたところ、日々の仕事のストレスも相まって半年経たずに全員が退職しました。
私自身も仕事中に涙が出るほど辞めたい時期もありましたが、弱い自分に戻るほうが怖かったので絶対に逃げないと決め、睡眠時間以外の全てを仕事に費やしコミュニケーションを覚え、人を育てる考え方を身につけました。
「自分はできる」とマインドが変わると出世もスムースになり、ほぼ1年ごとに主任、サブセンター長、センター長と上がりましたが、どのポジションでも同じ職位のメンバーから無視されましたね。特にセンター長時代、周りは40〜50代で役職に就いている上に、業界には気性の荒い従業員が多かったので、それを束ねる人といったらさらに強い人ばかりで怖かったです。しかし同時に、かつて自分をいじめていたようなタイプの人たちが若造の私に嫉妬心を抱いてくれることが嬉しくて。過去の劣等感に打ち勝った思いでした。

マリコロ:社長になりたいという思いは元々お持ちだったのですか。

西川:そうですね。実は私の母方の祖父は台湾人なのですが、日本へ来て一代で事業を築いていますし、父も兄も経営者。自分も経営者になるという思いは以前から頭にありました。

倒産の危機を救ったのは、激辛だったこれまでの人生

マリコロ:TMTは西川社長が働いていた名阪急配がM&Aを行った会社ですね。どのような経緯で社長に抜擢されたのですか。

西川:名阪急配3代目の村井社長が、自身と同様の経験を多くの人にさせたいという思いから、M&Aでグループ会社を横浜に作ってくれたのです。社員から社長になったのは私が初めてでした。設立時は役員として入社しましたが、実質的な経営は任せてもらい、その後自ら願い出て、2018年3月に社長就任。同時に社名も変更しました。

マリコロ:TMTという社名は西川社長が決めたそうですが、略す前の“Thoughts Make Things (思考は現実化する)”という言葉もご自身が考えたのですか。

西川:はい。苦労をかけた親に、人から必要とされる強くなった自分の姿を見せたいと思い続け、それを実現できました。社員の相談や講演でもよく話しますが、人生が変わるまで20年間毎日考え続けました。例外もあるでしょうが、大抵の人の悩みはそれほどではなく、強く願えば変われるはず。そんな思いを込めています。

本社に併設のトラックが出入りする倉庫にて。最近は外出が多く久しぶりに本社を訪れた西川社長。取材のあと従業員の皆さんとラーメンを食べに行ったそうです~

マリコロ:社長就任以降、倒産の危機となった激辛エピソードもあるそうですね。

西川:M&Aによって、企業風土が異なる旧体制からの変化に対応できない人も多く、さまざまな問題が起きました。最も辛かったのは、当時の売上の半分を占めていた大口顧客とのトラブルです。オフィスに商品を配送する仕事でしたが、担当ドライバーが勝手に今日は納品しなくていいと判断してサインし、納品したと装って商品廃棄を繰り返していたのです。発覚するまでの半年間でその金額は630万円分。当社の前に担当していた企業でも同様の事件が起きていたため、クライアントは怒り心頭。夜中に呼び出しを受け、倒産の危機に陥りました。この先何があってもリストラだけはしないと決断し、できる限り誠意を尽くしてクライアントの社長に説明を行い、中卒で働いてきたこれまでの生い立ちも話しました。すると、その社長に気に入っていただき仕事が継続となったのです。今でも、強い信頼を置いていただいていると思います。

マリコロ:過酷な幼少期を過ごしながらも、努力して自らの人生を切り拓いてきた西川社長の人となりが認められたのですね。

変化に対応しながら自己研鑽を積む

マリコロ:業界や事業に対しては、今後の展望をどのようにお考えですか。

西川:事業に対するこだわりはあまりないんです。

コロナ禍で当社の物流の仕事は伸びましたが、何十年後も同様の価値があるとは思っていません。変化する時代において自身を守っていくことこそが重要で、物流を柱に持ちつつも次のプロダクトが必要不可欠と考えています。今回始動した動画マーケティング事業もその一つ。 これにとどまらず、常に新たなものを生み出し、変化に対応し続ける会社でなければならないと考えています。

マリコロ:最後に、事業を通して実現したい夢や目標などをお聞かせいただけますか。

西川: バリの兄貴と呼ばれる日本人がいて、現地の人や日本から来た若者たちを支援しているそうです。漠然とですが、私もいつかそんな風になれたら嬉しいですね。そのためにも今は私自身が経験を積まなくては。 また、近頃改めて日本が好きだと感じていて、日本の素晴らしさを再認識させ、この国が世界から必要とされるための架け橋になるため、海外事業にも目を向けていきたいです。