SDGs先進企業は元ブラック企業。父の夜逃げと母の借金、借金のカタでの就職、起業した建設会社は一時倒産寸前に。SDGs推進のきっかけとなった壮絶な半生。
三承工業(株)
代表取締役
西岡徹人氏【前編】(岐阜)

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2018年、岐阜県の三承工業株式会社は建設業として初めて外務省の「ジャパンSDGs アワード特別賞」を受賞しました。女性活躍推進と持続可能なビジネスモデルが評価され、今では国連の認定企業となっています。西岡徹人社長を駆り立てるのは幼少期の原体験。
「SDGsは未来の味」連載【前編】では、貧困と家庭環境に苦しんだ幼き日から土木業界との出会い、そして20歳での独立から気付くとブラック企業と化した危機的状況まで、筆舌に尽くしがたい西岡社長の半生をたどります。

裕福なガキ大将が一転
幼き大黒柱に

マリコロ編集長:幼少期のお話から聞かせてください。

西岡社長:とても貧乏でした。元は親が大阪で不動産屋を営んでおり、家にお手伝いさんもいる裕福な家庭でしたが、小学4年の頃バブルが弾けると父が夜逃げしたのです。当時空手を習っていた私は、友達を練習台に使うジャイアンのようなガキ大将でしたが、父が蒸発した途端、家には「泥棒出て行け」というような張り紙がたくさん貼られ、それまで練習台にしていた相手から逆にいじめられるようになりました。

その後、中学2年で母・弟・妹とともに大阪から母の故郷の岐阜に移りますが、実家に帰ろうとしたものの勘当状態だったため頼ることができなかったようです。一人親家庭な上に専業主婦だった母はまともな仕事に就けず、最初の半年ほどは母の知人のところに身を寄せました。蒸発後に父と母は離婚したため父の借金とは無関係になりましたが、父との不仲のせいで行き場のない気持ちを母からぶつけられることもありました。
当時は何でも私がやらなければならなかったので、料理や裁縫など家事が得意になり、気づけば一家の大黒柱です。のちにこの経験が女性活躍や働き方改革推進へと繋がるのですが、まともな生活を送れるようになったのは中学3年の春休みの頃でしたね。

マリコロ:思春期ですよね。大きな環境の変化に反抗するようなことはなかったのでしょうか。

西岡:母が怖くてできませんでした。小学生の頃から多少悪さをしていたものの、母にバレないよう必死でした。中学生になると新聞配達や土木の住宅基礎屋さんでアルバイトを始めましたが、その頃突然知らない男性が家にやってきて、母が再婚したのです。中学3年のときでした。

中学からバイトでホストも経験
借金のカタとして18歳で就職

マリコロ:お母様が再婚されるまでは、西岡社長のアルバイト代で家族を支えていたということですか。

西岡:はい、それでも貧しいのは変わらず、住まいの下にある喫茶店から残ったキャベツの芯をもらい塩やバターで味付けして食べていました。平成初期の頃は電気を止められることが日常茶飯事で。ろうそくで過ごしましたし、土木の仕事で延長コードをみつけ、自動販売機から電気を盗んだこともありました。もちろん同級生が話題にするテレビやゲームなどわかりません。弟が2歳下、妹が3歳下、さらに父親違いの弟が18歳下です。
高校生の時は学校が終わったら部活、アルバイト、バンド練習の生活でしたが、高3になったとき母にホストクラブで働けと言われ、夜中の12時から朝4時まで仕事をしたこともありました。一晩でもらえる1万2千円を母に渡すと千円だけくれて残りを没収される毎日でしたが、悲しむ暇もなくただ生きるのに必死。就職も全然決まらなかったのですが、母が借金をしていた建設会社の専務に「3人働き手を連れてきたら100万円無しにしてやる」と言われたため、その会社に就職させられることになったのです。

マリコロ:壮絶すぎるお話です。18歳で建設業に入ったときはどんな仕事を担当されたのですか。

西岡:測量や現場監督の会社に同期3人とともに入り、最初の3か月でまず測量技術を覚えました。ようやく役に立てると思った矢先、この会社には3人も必要ないと言われ、じゃんけんに負けた私は出向することになるのですが。

出向先は同じく土木業でしたが家族経営のように規模が小さく、自分たちで重機に乗って全てを行う会社だったため、一通りの仕事を覚えることができました。同期は本社で現場監督の仕事のみを学ぶ中、気付くと私は独立しやすい状態に。とはいえ当時の給料は手取り13万円ほどで母に没収されてしまうので、今で言うネットワークビジネスのような形で毛皮を売る仕事と掛け持ちしていました。副業は母にバレないように行い、学生時代からやっていたバントでも全国を回り自分たちのデモテープなどを売って稼ぎましたが、このままでは人生が終わっていくと感じたため20歳のときに独立を決意したのです。

マリコロ:じゃんけんで負けたことが独立を目指す運命の分かれ道だなんて。バンド活動も趣味以上の価値を生み出していて驚きです。

西岡:そうです、お金と人脈作りのためにやっていました。独立起業時は学生時代のラグビー仲間と始めましたが、バンド仲間もスタッフとして集まり、多い時は60名ほどになりました。働いてくれる彼らの都合を許容する人材派遣会社を作ったのです。元請けから1人あたり1万8千円ほどもらい1万円支払うので、差し引いた8千円×人数分が私の得られる利益となっていました。

20歳で独立
ピンチを救う奇跡の出会い

マリコロ:このとき創業されたのが、現在の前身である西岡興業でしょうか。

西岡:そうです。20歳の私が経営している会社に土木の仕事など回ってこないため、草刈り専門業者として独立しました。岐阜にある川原に生い茂った草を、高齢の人たちが1日に500平米ほど刈っていた分野に参入し、若い私たちはその3倍刈れることが認められ仕事をもらえるようになりました。しかしそれは草の茂る時期だけのこと。12月には倒産寸前に陥り居酒屋で話し合っていると、そこに偶然現れた下水道工事の親方から使ってやると言われます。
大きな道での重機による本管工事は素人にはできないため、その本管から一般家庭へと繋ぐための細い道を手で掘っていく部隊として起用され、手掘り専門の会社として重宝されました。とはいえ、冬場にもらった下水道工事の仕事も年度末には無くなり、またもや倒産の危機に。再び同じ居酒屋で話し合っていると、次に現れたのが鉄筋工の親方です。人手が足りないからうちへ来いと言われ、3人の仲間と赴くことに。幅20メートル、深さ100メートルほどの高速道路の基礎部分を作る仕事なのですが、担当したのは5センチの鉄筋を何千個と積み上げていく作業。中国人リーダー2名、フィリピン人2名と日本人の私たち3名のチームは3年間ほど牢獄に閉じ込められたような空間で作業を続けました。

マリコロ:失礼ながら、作り話ではないですよね…。拾う神がこんなにも出現するとは。

西岡:笑。たしかに作り話だと思われますね、でもすべて本当のことなんです。

自社ビル購入するも倒産危機
ブラック企業まっしぐら

マリコロ:2006年には法人化し三承工業となっていますが、 この時には事業も多角化されていたのですか。

西岡:草刈りもすれば重機にも乗り、基礎工事も外装工事も何でもこなす若手人材豊富な派遣会社として有名になり、25歳の時には自社ビルを購入しました。しかし、それまで人材派遣で働いてきたスタッフばかりで指示待ち人間しかいません。適当に仕事をして帰ってしまうため烏合の衆と叩かれるようになり、どの現場も赤字で倒産寸前に陥りました。

マリコロ:自社ビル購入から一気に倒産寸前ですか、、

西岡:一時は安定したものの、私自身の浪費のせいで売上も借金も3億円という瀕死の状態に陥りました。当時の私は朝まで飲んで昼に会社へ行くと社員を罵り、その後サウナで身を整えたらまた飲みに行くという生活でしたから。

そんな時転機が訪れます。2011年の東日本大震災の際、土木事業部において大量退職が起きました。半数以上のスタッフを失い倒産するのではと焦った私は、社風考察セミナーに参加しました。そこで会社を良くするための社内アンケートを実施し、最後に「会社に言いたいこと」の欄を設けたところ、「社長の関西弁がムカつく」「社長の香水の匂いが臭い」と私の悪口ばかり。社員が10〜15名しか在籍していなかった時期なので、筆跡で名前を特定しようかと憤りましたが、セミナー講師の方から「西岡さんは会社や関わる人を幸せにしたいと言いながら何もできていません」と指摘され、冷静になりました。帰宅してから家族にセミナーでの話をすると「今さら気づいたのか」と言われる始末。世の中に対して貢献しなければ私は一人なのだと初めて気づきました。このとき32歳でした。

西岡社長の連載「SDGsは未来の味」は【後編】に続きます。
後編では、ブラック企業と化した三承工業がどのように「ジャパンSDGsアワード特別賞」を受賞する企業へと大変身したのか、そしてSDGs活動に力を入れる西岡社長の思いに迫ります。